2025.11.28
山形で110年続く伝統建具店 | Masters of Japan
障子をはじめとする日本の建具には、長い歴史と職人の繊細な技術が込められています。 日常で何気なく使っている建具ですが、実は日本の環境に寄り添い、長く使えるための工夫が詰まっています。 ■ ほぞ組という日本伝統技術|釘を使わない精密な組み上げ 伝統的な障子には、「ほぞ組み」と呼ばれる技法が使われています。 木を丁寧に組み合わせ、釘を一切使わずに仕上げることで、湿度の変化が大きい日本の四季に適応し、長年使える建具が完成します。 見えない内部構造こそ、職人の技術が光る部分。 強度と美しさを兼ね備えた、日本らしいものづくりの精神が息づいています。 ■ 100年使える建具の理由|木材の力を引き出すものづくり 釘を使わずに組むことで、木本来の調湿機能を妨げないため、 割れにくく、壊れにくく、何十年も使用可能。 適切なメンテナンスを行えば、工具や建具は何十年も使えます。 古い道具を手入れしながら、世代を超えて受け継ぐ文化が、建具職人の現場には息づいています。 ■ 日本の道具と技術を守り継ぐ姿勢 日頃のメンテナンスを大切にし、工具の調整を定期的に行うことで、 正確で美しい仕上げが可能になります。 職人は工具の状態を見極め、用途に合わせて使い分け、次の世代へ技術を継承しています。 ■ 日々使い続ける鉋(かんな)の調整作業 「台ならし」鉋の木に当たる台の部分を調整する作業のこと。 ただ真っ平らにすればいいものではなく、刃の上側と下側で髪の毛1本分程度の高低差を作ったり、 左右差についての均等に調整することで鉋のかかり具合をコントロールします。 ■ 山形・齋藤勇治建具店|110年の歴史を持つ建具店 山形にある齋藤勇治建具店(現在は「障子.com」)は、創業110年以上続く建具店。 国産・秋田杉を贅沢に使用し、自然の調湿機能を活かした障子づくりを続けています。 全国の工務店や、こだわりの障子を求める個人へ向けて、 高品質な手づくり建具を提供。 職人の高齢化で建具店が減る中、 伝統技法と日本文化を次の時代へつなぐための取り組みも行われています。 ■ 伝統を未来へ|暮らしを豊かにするものづくり 建具は単なる建材ではなく、暮らしに寄り添い、心を整え、 世代を超えてつながる日本文化のひとつ。 技術と精神を守り、未来へ残すことが、伝統職人の使命です。 ■ オーダーメイド・相談受付中 ・ 工務店様・個人注文どちらも歓迎 ・ デザイン相談無料 ・ 全国発送対応 ぜひお気軽にお問い合わせください。
2025.02.06
齋藤勇治建具店の歴史 〜第1章〜
今回は「齋藤勇治建具店の歴史 」シリーズとして、弊社の約110年に渡る歴史にふれていきます。 齋藤勇治建具店の創業は1915年(大正4年)に遡ります。かつて北前船の寄港地として日本の中心と言われるほど繁栄した湊町・山形県酒田市。 かつて日本有数の湊町だった「山形県酒田市」 江戸時代には、酒田をはじめとする日本海の港や北海道の港から江戸や大阪に、米や魚、特産物などが船で運ばれていました。江戸の商人・河村瑞賢が整備したとされるその航路は「西廻り航路」と呼ばれ、その航路を走る「北前船」は当時の経済を大きく支える存在でした。 そして酒田の街には多数の商人が降り立ち、たくさんのお金、モノ、文化を運び込むことで日本有数の湊町として栄えていきました。 1915年(大正4年)に酒田市上台町(現・日吉町)の地で創業 湊町としての繁栄が色濃く残る中、時代は明治に移り、東京〜青森間の東北本線が全通。交通網や通信手段の発達により北前船はその役目を終えることとなりましたが、酒田の街の活気が衰えることはありませんでした。 1914年(大正3年)には陸羽横断鉄道酒田線が開通。酒田駅が落成となりました。その翌年1915年(大正4年)、1代目齋藤久治が酒田市上台町(現・日吉町)の地で齋藤勇治建具店の前身となる建具店を創業しました。 料亭が立ち並ぶ上台町で「町の建具屋」として奔走する日々 民家や料亭が軒を連ね、芸者たちが行き交う料亭文化が色濃く残る「上台町」の地で、それから55年にわたり自宅兼工場として営業を続けました。数人の住み込みの職人達と協力しながら、当時の住宅には必要不可欠だった障子や襖(ふすま)など、町の建具屋として多くの製造、修理を行ってきました。 また当時は掛け軸や襖に絵を描く「表具屋」や、建具に漆を塗る「塗師(ぬるし)」など、今ではほぼ見かけなくなった職人達が活躍していた時代であり、建築の中心を担う大工とそれぞれの職人が連携して一軒の家を立てる図式が一般的でした。自動車がまだ普及していなかったため、材木などの運搬は主に馬車やリヤカーで行っていました。 1969年(昭和44年)、木材加工の世界にも機械化の波が押し寄せ、動力の確保や、近隣への干渉などの問題を受け、当時「酒田木工団地」として木材利用工場の誘致を行っていた現在の所在地にあたる「酒田市両羽町」に移転することとなりました。 〜第2章に続く〜